先生の詳しい容態も 知らぬまま アトリエ再開の日を待っていた。
そんなある日 先生から 単発でレッスンをやると 連絡があり お見舞いをもって 久々にアトリエを訪れると 輪郭がほっそりした先生が迎えてくれた。
久しぶり過ぎる 先生や仲間達との再会に ぱる太も本当に嬉しそうだった。
ただ 先生の様子はと言うと 決して元気そうには 見えなかった。
他のお母さん達も みなさんお見舞いを持ってきていた。
ご病気について 私は気になりつつも あまり聞いては良くない気がして 触れないでいた。
ある お母さんが割と 直球で 何故手術が必要だったのか??と、聞いたので ちょっと びっくりして 先生の反応を見ると
「ガンだったのよ、今も何食べても 味覚が 変で、アルミホイル噛んでるみたい笑」
明るく 答えていた。
「アルミホイルを噛んでるみたい」は、先生らしい表現だなと思った。
生きている先生を見たのは それが 最後だった。
そこから 2週間ほどして 訃報が入った。LINEは先生の娘さんからだった。
大好きな N先生の死を ぱる太にどのように伝えたら良いものか 迷ったけど ストレートに伝えた。
ぱる太の表情は 泣きたいのをこらえているような 何とも言えなかった。
斎場に持って行く 花は オレンジや黄色のガーベラの明るいアレンジメントを選んだ。
ぱる太は棺に入れる手紙を書いていた。
「見ちゃダメ」と、言われていたけれど 恩師に宛てた初めての手紙の内容が気になり
こっそり 読ませて貰った。
「Nせんせい しんだらどうなるの?かんがえたらこわいけど かんがえてみて よかったよ てんごくに いっても げんきでね」
当時2年生の ぱる太が書いたその手紙を読んで 私が号泣してしまった。
生まれて初めて経験した 心から信頼を寄せる 身近な人との お別れを経て
5年生になった現在も ぱる太は作品作りを 続けている。
N先生の 亡き後 いくつか アトリエに入会するも やはり ぱる太にとっての 先生は N先生しかいないのだった。
その後しばらく なかなか ぱる太に合う場所が見つからず
アトリエ探しから遠のいて居たけど ぱる太の工作やりたい熱意は 全く冷めることは無かった。
再び 必死で リサーチと問い合わせを繰り返し 現在の先生に 巡り会うことが出来た。
ぱる太は 周りと違っている事の方が きっと 多い。その全てが マイナスだと判断する人も
一定数 居たりする。それに いちいち 傷ついていた頃もあったけど
ぱる太自身が 小さな頃から 今も変わらず夢中になれるものと 出会えた事は 私にとっても
ぱる太に とっても 幸せなことだ。
作品の世界は ひとつとして 同じ物など無い 究極の自由が 許される。
ぱる太も その世界でなら 心置きなく 自分のままで居られるのだ。
N先生と初めて お話をしたとき 先生が 言った 今でも忘れられない言葉がある。
「冗談が通じる場所が あったって イイじゃない笑」
幼稚園や学校で 常に はじかれて しまっていた 私とぱる太にとって
N先生のアトリエは まさに そんな場所だった。
ここ最近ぱる太が話していた 将来の夢は この家を開放して 「アトリエの先生」になること。
いつの日か この家に 沢山の子供達が やって来てくれることを 私も楽しみにしている。
そして 自分と同じように周りと違う事で悩んでいる子供に
かつて 自分が差し伸べて貰った 手を 今度は 差し伸べてあげて欲しい。
良い循環を繰り返していける 未来を 期待せずには居られない。。
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