卒乳の頃

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完全母乳だった ぱる太は2歳ギリギリまで おっぱいを止めれずにいた。

それもあり私は産後の疲れと慢性的な睡眠不足で 常にヘトヘトだった。

最終的に止めれたのは1歳8か月頃だったと思う。

ある日の夕方突然にだ。

夜寝る前は必ずおっぱいがないとダメだったぱる太。

でもその日は不思議なことに 夕ご飯を食べたらねてしまった。

翌日も何となく物足りなさを抱く様子はありつつも

その後 ぱる太はおっぱいを 欲しがる事はなくなった。

あっ気なくも 思っていた以上に長く続いた授乳期間がやっと終わり だいぶ気が楽になった。

妊娠中同様 薬や食べ物に気を付けなくてはならなかったのと

なによりまとまった時間 ぱる太を誰かに預けることが 完母だとなかなか厳しかったり

夜泣きもひどかったぱる太との日中は 本当に疲れ果てて 外に出かける気力など 無かった。

卒乳は 完母親子の最終ハードルと言えるかもしれない。

私が完母を続けた理由は二つほどあった。

上の子の時は産後6か月で仕事に復帰したのもあったけど

そもそも お姉ちゃんを出産した病院は ミルク推奨、むしろ母乳の指導など皆無な病院だった。

3人全て別々の病院で出産をしたけれど そこは本当に病院によると思う。

唯一 大学病院での出産だった ぱる太の時は お姉ちゃんの病院とは真逆で

ハードな母乳指導だった。産後それほど 母乳量が多くない時期

授乳室でミルクを足そうと考えるお母さんも沢山いると思う。

そんな時 必ず助産師さんがやって来て おっぱいをむんずと掴み

赤ちゃんに グワワッとくわえさせ一定時間様子を見ながら

乳首に負担がかからない抱っこの仕方 赤ちゃんの顔の位置など丁寧に教えてくれた。

母乳が出てないのにミルクを足さないのは とても不安だったし

厳しいと思ったけどこの時の助産師さんの指導があったからこそ

完母を続けて来れたから もう 感謝しかありません。

完母を選択をした もう一つの理由に あの『東日本大震災」がありました。

当時ぱる太はまだお腹にいて 妊娠8か月。被災地から離れた私が暮らす横浜でもかなりの揺れで

電気もガスも 突然ストップ 当時住んでいたマンションは給水するポンプの設備が電気だった為

水道も止まった。3月のまだ寒い時期 小学生だったお姉ちゃんと真っ暗な部屋で

びくびくしながら 夜が明けるのを待ったのを覚えている。

その日を境に 様々な物が店頭から消えた。

トイレットペーパーを買うのに長い行列が出来たり

開店直後のスーパーが入店制限をかけたり とにかく 何もかもが不足する日々が続いた。

それらの中にオムツやミルクも含まれていた。

赤ちゃんにとって必要不可欠なミルクやオムツまでも

確保するのが困難だった状況 もう間もなく生まれてくる お腹の子供とのその後の生活が

不安で仕方なかった。

もし母乳で育てることが可能なら少なくともミルクは買わずに済む。そう考えたからだった。

その後 度々 余震が続いたけれど

ぱる太が生まれた頃には 生活もやや安定し始めて

幸いにも それらに困る事もほとんどなく済んだ。

震災の本当に直後 生まれたばかりの赤ちゃんやお母さんは

一体どうなってしまってたのだろうと思う。

未だに根強い『母乳こそ母の愛!!』みたいな事を言う人いるけど

私もあのような震災がなければ ストイックに母乳を続けて来れてたか分からない。

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