まだ なんとなく
不調を引きずる ゆり太です。。
耳の閉塞感は 回復して来たのですが
相変わらず 咳はしています・・
つい最近 面談があり
学校に行ってきました。
今日は 久々 ぱる太の事を 書いて行きますので
どうか最後まで お付き合い下さいな。。
這い上がれない沼
このところ 夫ベンコロが
意味不明な事ばかり
立て続けに のたまっていたせいで
ぱる太について あまり書く機会が
無かったな・・と 思います。
おそらく このブログを
見に来て下さっている方の中には
私と 同じように
お子さんの事で 悩みを抱えている方も
おられると思い
久しぶりに ぱる太について
書きたいな・・と 思いました。
こちらでも
過去に何度と無く お伝えしているように
乳児検診の度に 必ず指導が入り
後日 再検診に呼ばれるのが
当たり前でした。
なので 常に
ぱる太の 発達に不安を感じており
その不安が『事実として確定』したのは
2歳頃でした。
もう この辺りのことは
正直言って あまり
思い出したくありません。
2歳になっても
ほとんど 言葉を発する事なく
何かを 尋ねても
顔を 「コクン」として頷いたり
頭を左右に 振ったりするだけで
ぱる太との コミュニケーションは
まるで 無音の世界の ようでした。
同じくらいの月例の お子さんと
比べると
ぱる太の 成長は
ゆっくり 通り越して
明らかに 遅いのです。
何を どうしても
ほとんど 喋らない ぱる太との時間は
当時の 自分にとって
手も足も着けるのに
どうしても 這い上がれない
ドロドロの
重たい 沼の如く
一見 抜け出せそうな・・
そんな 場所であるのに
一向に 抜け出せない焦りで
助けを 求めることすら 諦め
その 重たい沼に
完全に 自らハマって 行ったのでした。
放課後デイサービス
幼稚園時代から 比べると
小学生に入ってから トラブルは
減った??ように 感じましたが
実際は 幼稚園ほど
ひとりの生徒に 先生も
目を向けていられない状況に
なったからだけであり
学校内で トラブルがあったとしても
いちいち 保護者に連絡など無いのです。
幼稚園ほど ぱる太の様子が
聞えて来なくなっただけで
元々 周りと同じように物事を
理解し 行動するのが
苦手な ぱる太は
だんだんと
学校に行くのも 教室に入るのも
拒否するように なっていきました。
学校が終わって 低学年の頃は
公園で クラスの友達と
よく 遊んでいた時期も あったのですが
結局 そこでも
トラブルが 起こってしまい
友達とも ギクシャクしだし
私も 面倒になり
放課後デイサービスを
利用するようになりました。
学校が終わってから 集団療育もかねた
遊び場所に行かせることで
仲間とのトラブルを
回避するようにしつつ
外部と繋がる事で
ぱる太も 私も
学校以外の居場所が 出来たので
少し 気楽ではありました。
ただ この放課後デイサービスは
営利目的が強めな施設と感じ
3年生~5年生の始め頃まで通って
今も 利用資格は継続中では あるものの
全く 利用していません。
放課後デイサービスも
施設の 数自体 かなり
増えては 来ているのですが
あくまで 子供と一時的に
離れる時間を作る事で
保護者の負担が 少し軽くなる為の手段と
とらえる方が
良いかも知れません。
学習面(宿題)のサポートが有りとされている
施設でも あまり多くは期待できない場合が
あったりもしますし
ぱる太は やっと
学校が終わったのに
また そこでも「勉強」って なるのが
イヤだったようなので
完全なる遊び場と言う 位置付けとして
利用するように していました。
衝撃的なナゾ行動
6年生にもなると 流石に学習面が気になる
ところでは あります。
テストを ほぼ 白紙で
出して 点数がついて無い?!なんてゆう
衝撃的なことも 多々あり・・
ただ 先生曰く
分からないから 答えを
書いていないのでは無く
別な事を 考えてしまっていて
テストをやるのを
忘れてしまっていたりする
とのこと。
テストが配られて テストの時間なのに
テストをやるのを忘れるって
一体 ど・・どーゆーこと?!
普通なら・・やりたくなくても
否応なしに テストを やらなければならない
それを ある種 義務として
周りは 取り組んでいるのだと思うし
それが 授業であり
学校なのだと
私自身も そう認識し
学校に行っていたもので・・
正直 ぱる太の こういった
行動は 本当にナゾでしか ありませんが
自分が受け入れたくない事柄は
一貫して受け付けないベンコロを
見るに おそらく昆虫も
このような 子供であったのだろう・・
何不自由ない不幸せ
こう言った 摩訶不思議な子供でも
「普通の子供」として 育てようとし
実際 何の軌道修正が
行われないまま 成長すると
こうなるんだな・・と・・
モデルケースである
ベンコロを 見ていると
心から 不幸せだと 思います。
ベンコロ本人は
私から 哀れみを向けられる
その意味すら 理解していませんが
ここでも ある意味 親は選べないのです。
経済的に 何不自由なく育った ベンコロですが
果たして 「普通のように」
育てられたことは
本人にとって 良いことだったと言えるのか??
発達障害と言う 言葉さえ
存在しなかった 当時であっても
我が子の 発達に
全く 違和感を感じなかったのか??
感じていたけれど
受け入れたくなかったのか??
かつて 私も
検診の度 指導に呼ばれるごとに
まさか 自分の子が
「おかしいハズがない」
そういう 受け入れがたい気持ちを
持っていたのも 事実です。
正式に 「自閉症スペクトラム ADAHD」と
診断されたのは
小学校3年生の 終わり頃で
割と 最近なのですが
診断名が ついたときは
どこか ほっとしたのを覚えています。
やっと訪れた 平穏
「普通じゃないのに 普通のように」
これを 強行したら
いずれ 私も そして
誰より ぱる太自身が
1番しんどいと 思ったのです。
とても 辛い事実を 現実として
受け入れる事は とても勇気が
必要かも知れませんが
「普通のように」を
続けていたら
今の 私とぱる太の姿は
おそらく 存在しなかったかも知れません。
6年生になった ぱる太は
いつも 助けてくれる 仲間がいてくれます。
ぱる太も そんな
自分を 受け入れてくれる 仲間達が
かけがえのない 存在である事を
少しずつ 認識しだしたようで
小学校生活 6年目にして
ようやく 平穏な学校生活を
送れています。
面談の際 先生がおっしゃった
言葉の中で 私が1番
良かったなと 感じたのが
ぱる太くんが
物事や 誰か 人に対しても
怒っているのを
見たことが無い
あんなに トラブルまみれだった
ぱる太が・・???
ある意味 信じられませんでしたが
低学年の頃は
ぱる太を異質と とらえていた
仲間達も 時間をかけ
ぱる太を 温かく受け入れてくれる
存在になってくれたのは
もちろんですが
ぱる太も ゆっくりながら
その存在の 大切さに
気付く事が
出来るようになっているのは
大きな 成長だと 感じます。
一方通行だった コミュニケーションに
調和が 生まれた事で
仲間といる時間の 楽しさを
味わう経験も 生まれます。
発達障害は 生まれつきの
脳機能の異常が 原因なので
年齢と共に治る病気や 症状では
ありませんが
小さな成長の 積み重ねが
本人にとっての 大きな経験と
感じる場面が
きっと 何処かで
必ず 訪れるのだと
私自身 実感しています。
長い長い トンネルを
歩き続けている・・
今現在も それは 変わりませんが
いつの日か その先を
ぱる太が 自分だけの力で
歩いて 行ってくれることを
願って 止まない
母 ゆり太です。。
今日も ここまで お読み頂きまして ありがとうございました。。
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