明日は 『母の日』
通常であれば 自分を生んでくれた お母さん
いつも 家族の為に家事や 学校の事など
一生懸命 頑張ってくれている
『お母さんに感謝する日』なのですが
私は その 『母の日』が 嫌いです。。
今日はそんなこと書いていきますので
どうか最後まで お付き合い下さいな。。
いきなりですが 私は母が嫌いです。大っ嫌いです。
「生んでくれた親にそんなことゆうもんじゃない。」とか
言って来る人も嫌いです。
すみません・・つい 感情的に・・(笑)
でも 本当に 私の母は・・なんて言うんでしょう・・?
子供に愛情を持って育てる・・と 言う所からは ほど遠く
しつけと言うよりも
子供を『支配』すると言う言い方が しっくりくると思います。
日常の 何においても それこそ食べ物 学校に着ていく洋服
その全てにおいて
私に 選択権と言うモノは 全くありませんでした。
もし 母の言う事を 聞き入れなければ
顔をぶたれたり 雨の日に裸足で外に出されたり
数週間に渡り 無視されたり そんなことが 日常的でした。
そこまで されなければ ならないような 「悪い事」を
私は してしまった覚えはないのですが・・
例えば ちょっと季節の変わり目で
朝は寒いけれど 学校に着くと暑くなる・・
このような シチュエーションで
家を出る前 私が半袖を着ていると
「そんな格好で行くつもり?風邪を引いたら誰が面倒見るの?」
母は 私が長袖に着替えるまで
延々 半袖を着ていこうとする 私を 罵り続けます。
その内容は だんだんと 半袖→長袖問題 から
随分 かけ離れた 母の生い立ちにまで 及びます。
そんな日常の 本当にどうでも良い事柄でも
もし 母の言いつけを聞き入れなければ
あのような 悲惨な目に遭うので
もう 理屈抜きで 母の言う事が正しいと 認める事しか出来ませんでした。
なので 子供時代はとても 抑圧され
自分の希望や要望は元より
感じたこと 思っていることも
母には もちろん 周りに伝えてはダメなんじゃないか?
自分は誰にも受け入れて貰えないんじゃないか?
そんな風に 常に思っていたし
私は 母の子供では無く 母の所有物と 化していたのでした。
母は 小学校4年生の頃にお母さん(私の祖母)を乳がんで亡くしたそうです。
祖母は42歳と言う若さで亡くなり 私も遺影でしか祖母を見たことがありません。
3人兄妹の末っ子だった母は とても可愛がられて育ったらしく
言うまでも無く 祖母の死は 母にとって 耐え難い悲しみだったと思います。
祖父の再婚が理由で
母は中学卒業と同時に家を飛び出します。
たかだか 15,6歳の女の子が ひとりで生きて行くって
想像するまでも無く過酷です。
母は生まれ育った神奈川を出て 東京や千葉 長野にも住んでいたらしく
父と家庭を持つまで 様々な経験や苦労を積んで
大人になったのでした。
こんな母の生い立ちや苦労話を 事あるごとに聞かされて育ちました。
もちろん 祖母の死は まだ小学生の女の子だった母のその後に
大きな影響を与えたのは事実なのだと思いますが
その様なツラい経験をした自分は 『誰よりも優遇されるべきだ』と
母の行動に そう言った歪んだ思いが
常に反映されていたように 思います。
「裕福」とまで行かなくとも ごく普通の家庭で育った
同級生のお母さん達の事を
「あんな 世間知らずのお嬢さん育ちは 暢気でうらやましい」
などと 常に小馬鹿にしている 母が心底 イヤな人間だと思いました。
仲良しだった友達の ママ達の事を
そんな風に言う 母の気持ちなど 当時は 全く理解出来ずにいた。
ただ その根底には きっと
幸せな家庭で育った ママ達の事を羨ましく 妬ましくて
それに引き換え 自分は 中学もそこそこに まともに10代を生きて来なかった
コンプレックスを抱いていたのかも・・??
だとしても
私は いくら自分が不幸な生い立ちを 抱えて生きて来たとしても
他人を常にこのような 目線でしか見られない
母に 全く共感など出来ないのでした。
母は いつも
「出来ない」 「わからない」
何かにつけて繰り返していました。
特に勉強に関しては 小学校の算数の宿題を聞いても
「そんなの 分からない」
先生に出す連絡帳なども 漢字に誤字が目立ちました。
あの・・確かに読み書きと 基本的な計算が(わり算くらいまで??)出来たら
生活していく事自体は 可能??なのかも知れません。
ですが 明らかに母の 極端な学力の低さは 否定出来ない。
それが故に?? 私や兄に求めるレベルは凄まじく高かった。
自分は 小学生の算数もまともに教えられないのに??
私的には納得がいきませんでしたが
そこを突っ込むと 不幸な生い立ち話を 延々聞かされた挙げ句
顔をぶたれ 外に放り出されるので
もう 成長と共に 母の面倒な性格を受け入れたフリをして
暮らすようになっていました。
そして 出来ない事を
「自分は不幸だ 親がいなくて 教われなかった」
そう言って 時に ギャンギャン 子供の前で 平気で泣きます。
親がいたところで 教わる事が出来ない
目の前の 我が子の事など無視して 感情に任せて泣く
そんな母の姿が
本気で情けなく思えたのでした。
母がよく言っていました。
私が音大に進学するために 付属の私立高校の受験を 希望していた場面で
「行きたい学校に行けない子供よりも
行かせてやれない親のがツラい」 のだと・・
よく 分からない理屈ですが・・
ようは お金は出せない・・シンプルにそれが理由です。
ピアノに関しても
発表会の帰り道 いつも ダメだしをされていました。
演奏そのものもそうですが (もちろん母は楽譜すら読めません)
私は 大人になった今でも 何か夢中になると
唇を噛んだり 強く結んだりするクセがあるのですが
「そのクセもみっともない」とか
「わざわざ何であんな変な顔をして弾くんだ?」など
私が マスクをして 動画を出す理由も
母のその言葉の トラウマみたいな所があります。
進学問題の時も 私のピアノのレベル程度では 将来性が見込めないとも
母は言いました。
事実とは思いますが
親なら 子供の可能性を信じて応援するモノだと
現在 母となり余計に自分は感じるのですが
ここでも 母は自分の不幸な生い立ちを持ち出し
「寝食できる場所があるだけ オマエは幸せだ」
そのような まるで次元の違う問題にすり替える母に対する
やるせなさと 怒りを感じずにはいられません。
『母の日』は このような 負の感情を呼び起こされるので
私にとっては ちょっと ツラい日です。
今回 詳しくここでは 述べませんが 理由があり
母とは絶縁し 20年以上 会っても 話してもいません。
母がいつも 小馬鹿にしていた ごく普通のお母さん方に
育てて貰えた人達からすると
自分を生んでくれた母親と絶縁するなど 到底考えられないと思うのです。
普通のお母さん方は 母がバカにしていたように
例え 世間知らずで暢気だったとしたって
私の母よりも 間違い無く一般的な常識と 我が子に対する愛情を
持ち合わせていると思います。
私が 水商売の世界に 身を起き続けた理由も
自分の母親のような 情けない事を
子供に 決して言いたく無かったからです。
どのような ツラい状況に置かれても 私はこの20年以上 母に助けを求めようとは
1度も 思う事すらありませんでした。
どんなに回避しょうが無かった 不幸で悲しい運命だとしても
それを理由に 生きていく事が本当の幸せなのか??
『母の日』に いつも 自分の母親に対して
問いたくなります。
今日も ここまで お読み頂きまして ありがとうございました。。
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