7月11日 今日 誕生日の ゆり太です。。
(いや どーでもいーかなー笑)
いつも CLUBゆり太を 見に来て下さって
本当に ありがとうございます。
普段から 心のままに やっておりますが
今日は 番外編という形で
いつも 以上に自分勝手に書いていきますので
どうか最後まで お付き合い下さいな。。
私は 長距離トラック運転手の父と 元ホステスだった母との間に
第2子として 横浜で生まれました。
2つ上に 兄がいます。
母が 元ホステスだったと知ったのは 高校生??に
なったくらいの頃でした。
小さな頃から 親戚の おじさんや おばさん達が
母の事を 「りっちゃん」と呼んでいたのが
とても 不思議でした・・
母の名前は「マサミ」です。
「ら」行は どこにも含まれません。
母の源氏名が「律子」だったようです・・
時代背景的に あのプロボーラーの
「中山律子」さんに あやかってなのか??
(中山律子さんを知らない人はこちらから↓)https://www.ssf.or.jp/ssf_eyes/history/interview/026.html
よく 分かりませんが 母の過去を知るほど
なんとなく 闇を感じずにはいられないので
あまり 深くは聞こうと 思いませんでした。
ただ うちの母は 全てのことにおいて
とても 怠け者なのです。
『CLUBゆり太シリーズ』でも
お伝えしておりますが
夜蝶の世界は 地道な営業活動が不可欠。
人一倍 努力が嫌いな 母マサミ・・いえ
「律子」は
ホステスとしては イマイチだったようで
長くは 続かなかったと聞いていますが
一応 元ホステス(夜蝶)から生まれた私は
まさしく その 由緒正しい?!血統を継いでいると
言うことです・・
(ああ・・もう ・・なんだか )
幼い頃から 両親は 毎日 喧嘩ばかりしていました。
父が母に手を上げて 母が泣きながら 家を飛び出すとか
何度もあり そのうち 両親それぞれ
お互いに浮気をしだしました。
父は 行きつけの フィリピンパブの女に
部屋まで借りてやっていて
父の貢ぐ金が 本国にいる家族に送金され
結果 一族が救済される事から
私は これを 国際支援の一環としてとらえております。
母は母で パート先の割烹料理屋の
妻子持ちの板前と フォーリンラブしていて
更に そこにはお相手の奥様も
手伝いに来ているという とっても
デンジャーなシチュエーション。
夜な夜な 母が小さく身を丸めながら
固定電話で話す 会話の様子から
おおよその 母の危険な恋の行方を 把握・・
(※聞こうとしなくても いやでも 聞えてくるのです)
何故 父と母が 離婚に至らないのか??
その時 とてもナゾでした・・
(後に 結局 離婚をしましたが・・)
このような もう ちょっと
良く分からない 家庭環境に育った私。
荒廃し尽くした 家庭環境の中で 唯一
私に 光を与えてくれていたのは
ピアノでした。
両親が 口論してようが 何だろうが
私は いつも ピアノに向かっていました。
ピアノの音が お互いに 浴びせ合う
両親の怒号を
自分の耳に 聞えなくしてくれました。
本当であれば 高校から音大付属の
私立高校への進学を ピアノの先生も
薦めてくれていたのですが
何分 このような 両親だったもので
とりあえず 大学進学は 断念しました。
娘の 進学先や将来より
何よりも
それぞれのラマン(愛人)に捧げる
お金と時間が大切。
こんな クズ親の元から離れたくて
美容師の薄給を せっせと貯め
ハタチ過ぎに 家を飛び出しました。
当初 私が生まれる 予定日は7月7日頃だったらしい・・
そう 『七夕』。。
とてもロマンチックな 夏の夜・・
1年に1度だけ・・ それも
雨の降っていない日。
離ればなれにされた2人は 天の川を渡らないと
逢いに行けない・・そんな
1年に1度だって 逢えるかどうかすら 分からない
いわば 『伝説の女織り姫』・・
その 七夕にちなみ 私の名前の「ゆ」の字は
『夕』にしようとしていたところ
予定日を4日も過ぎた 11日に生まれた私・・
7月11日 皆さん 何の日か
ご存知でしょうか?!
そうですよ あの 誰もが知っている
『セブンイレブンの日』
セブンイレブンですよ !!
伝説の女から一転!!
24時間 いつでも 逢える!!
もう これは ギャグなのか??
生まれる タイミングからして
私は ウケでも狙ってたのか??
七夕から 『夕』を取るには 何となく
ビミョーな・・
七夕の少し前ならともかく??
過ぎた後なので『夕』は不採用になり
私の名前に『友』の字を採用・・
『友達』が いっぱい出来ますように・・
夏の夜空に煌めく天の川が どうのこうの
あの ロマンチックな伝説は いったい どこ行った?!
いきなり現実的な願いへの あやかりに シフトした両親により
こうして ゆり太は
このように名付けられ
現在 こんな ブログを書くまでに 成長。
7月11日生まれの 有名人に
80年代 爆発的な人気を誇っていた
音楽グループ 『チェッカーズ』の
リードボーカル 藤井フミヤさんがいます。
当時 私は まだ小学生でしたので
そこまで アイドルに興味を持つ
年齢では 無かったのですが
同級生の女の子 ちょっと 先を行ってるイトちゃんは
フミヤの 熱狂的な ファンでした。
教室のオルガンや 音楽室のピアノで
私らお子ちゃまは
テレビでやっている アニメの主題歌とかを
みんな こぞって弾き合っていた所
エレクトーンを習っていた イトちゃんは
いつも チェッカーズの楽曲を
誇らしげに 披露していた。
イトちゃんは 身長も高く
着ている洋服も 大人びていたけれど
大人っぽいのは 見た目だけ・・
実際は ちょっと 面倒な性格だった。
例えば みんなで ゲームをしていて 自分が負けそうになると
泣いたり 途中で「やめる」と言って
帰ろうとしたり 帰るのを引き留めないと
怒ってきたりと・・まあ・・そういう・ね
やや?けっこう・・かなり・・面倒な子でした 笑
そんなイトちゃんは 私の誕生日が
フミヤと同じと知ってから
私に ファンレターを書くようになった・・
いや 正確にゆうと・・フミヤに宛てたファンレターを
ファンクラブに送らずに 私に渡して来ていた・・と
言うことなのだが・・
内容も フミヤへの 熱い恋する乙女の想いが
毎回 便箋に綴られており
これを 手渡される度に 困惑していた私は ある日
「ねえ イトちゃんこれ フミヤに送ってみたら??」
そう 言うと
顔を真っ赤にして
「そんな事 恥ずかしくて出来ない!!」
「だから ゆり太ちゃんに 渡してるのに ヒドイ!!」
怒って 走り去り
その後 しばらくの間 イトちゃんは
私と 喋ってくれなくなりました・・
私の 何がイケなかったのでしょうか??
「まって」って
追いかけなかったこと??
走って 追いかけるとかも
もう 面倒くさかったんですが・・
その後も 誕生日に チェッカーズまみれの
文房具をプレゼントしてくれました。
一般的な 小学生女子だった私は
サンリオの 「うちのタマ」や「ゴロピカドン」の
カンペンを使用していました。
(カンペン イメージ↓)
なので そこに 実写のチェッカーズの定規とか
貰っても 戸惑います。
しかも この定規の長さが
カンペンより ややオーバーしていた為
フタが閉まらないことから
使用を 自粛していたところ
イトちゃんに
「私が あげた定規 持ってきてくれてないよね??」
憂いに満ちた眼差しで 言われてから
「うちのタマ」のカンペンに
髪を結ぶ黒ゴムで 輪っかを作り フタの上に留めて
持ち運ぶ日々を 余儀なくされました・・
その後も イトちゃんとは
中学もずっと同じクラスだったけど
お互いに 別な友達との交流が深まり
自然と イトちゃんからの一方的な友情??は薄まり
ファンレターは止めてくれましたが
合唱大会の自由曲を 決める時とかも
「チェッカーズの 『悲しみよ腕の中へ』がイイと思います。」
なんら 悪びれること無く
そのような 発言をのたまい
クラスの空気を微妙にしていました。
ちゃんとした 普通の脳ミソを持つ親の元に生まれ
きちんと 教育を受け 大人になり
恋愛をして ごく普通の結婚をしていたら・・??
たまに そんなことを 考えたりもします笑
ところで 「普通」って
なんなんでしょうね??
普通の 基準は みんな その人の心の中の
目に見えない所で 定められているのか・・??
私の 人生は 控えめに 言っても
おそらく その「普通」からは ズレていると思いますが
なんだかんだ 夢を叶える日々を送れています。
このようなブログを書き
こうして 皆様に 読んで頂き
確実に 幸せな 日々を過ごしています。。
生まれ落ちる 場所 親 環境を選ぶ事は
出来ませんが
誰でも 自分の人生を 自由に歩むチャンスは
掴めると そう信じています。。
今回 番外編として このような内容を
書かせて頂きました。
普段から 不真面目な私ですが
ちょっと 真面目な事も たまに
書いていたりしますので
ふらっと のぞきに 来て頂けると
とても 嬉しいです。
今日も ここまで お読み頂きまして ありがとうございました。。
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